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はみ肉

むねにくブログ用

ルンルン気分のハビビ大統領は電気羊のニューロマンサー

プロレス

最後にプロレスの話になったし、勢いで日記がてら文章を書いたらそれなりの長さのものが作れたので、落ち着かない+眠剤コンボの参考資料としての個人メモ兼開陳しとくともしかしたら誰かの何か概念の言語化に貢献できるかもしれないポジティブシンキング。文字打って画面に出てきたのを受けて思ったけど、ポジティブシンキングって単語、強いんだけど展延性が微妙。あと、タイトルは本文にまあまあ関係ないと思うけどいかんせん同じ頭から出てきたものなので実のところは不明。



『翔太と猫のインサイトの夏休み』を少しよみ進める。カントのはなし。カント以前の主流である超越的観念論とカントの超越論的観念論の違いについて。超越論的観念論では感覚や認識を、それを成立させている何らかの法則によるものの産物とする。思考の順序としては、知覚により対象の存在が証明されるのではなく、まず対象があり知覚というシステムはそれ(対象の存在)を明らかにする、となる。(ここから始まる一文はぼくの発想ゾーンであることをことわっておくけど、例えばダイヤモンドの分子構造(存在)は裸眼(システム)では確認されないが電子顕微鏡(システム)で確認することが可能であり、しかもシステムの差異は存在の有無に一切の影響を与えないというメタファーはそれなりに有効であると思う。)したがって超越論的観念論において最早「我思う、ゆえに我有り」とは言うことができない。かわりにともかく我は存在しており、自我はそのことを発見するシステム(のうち、少なくとも一つ)である、ということが言えるだけだ。



ぼくの現在の考えとしては、観念論をめぐる闘争においてはカントの勝利だと思う。イデオロギーなる概念やダイヤモンドの例が示すように実情に即しているし。超越論的観念論とイデオロギー概念の相性が本当によくてしみじみしちゃう。哲学は紙とペンさえあれば超特急で真理に到達できるのが利点。科学的証明までには時間がもんのすごいかかるしそれまではあやふやな概念なり理論として扱われてしまうのが欠点。



なんでイデオロギー概念の間接的な再発見にこんなにしみじみできるかというと、プロレスの興行全体のパッケージングにマッチメイクの与える影響がえらくでかくて、それが主に上部構造によって構成されるからなのだけど、この、基底になる発想の説明をしてこなかったから、主にツイッターで色々書いてきたことが(「システムの問題として話したかった」んだけど)固有名詞の問題として認識されてしまうのかな、という発想に至ったんだわ。因みに直前のカッコ内はカギカッコ内部分に気づいてない、ないしは気づきのレベルが低い時期があって、言い換えれば「ううむ、わしは固有名詞の話をしたいのではないんじゃ」という言葉の言語化までに時間がかかっていて、そのへん針の振り切れたタイミングをよく覚えてないことによるもの。