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はみ肉

むねにくブログ用

諏訪魔選手とデモーニッシュ概念(序)

プロレス

久しぶりに書いてみた。前回のトピックとは違う話になっちゃうけど。

諏訪魔という選手がぼくのこころを激烈に惹きつけている理由の存在を希求しまた探索している中で見つけたある概念とそれを極めて正確に表す単語についてとりあえず覚書。

野良で勝手にやっていることやら、ぼくの無意識下のバイアスやら、まだほんの少し論文とゲーテの詩の部分を通読した分の経験値しかないことによる錯誤の可能性はあるけど、ひとまず現在のぼくの理解について。



デモーニッシュ、という言葉が存在する。



デモーニッシュという言葉の起源に会うにはゲーテに遡る必要がある。なぜなら彼こそまさに当該の概念にデモーニッシュという言葉を与えた張本人であるから。



デモーニッシュなものは
非理性的にして
また悟性を持たず
ときに善行をなし
ときに悪行をなす、
そういった、ある種超越的性格を持ちながらしかし(一神教の言うところの)「神」でもなく、そればかりか「悪魔」でもないという、非常にカオティックな、いわば強風を伴う雷雨のようなものだ。



間違えちゃいけないのはデモーニッシュであることが即ち悪魔的であることと等価「ではない」ことだ。たとえば道徳への反逆、という行為にあって悪魔的であることがそれ自体の自己目的化を不可避であるのに対し、デモーニッシュであることはそれ自体の自己目的化を望むか望まないかという点についていえば全くもって自由なのだ!



それはニーチェが「ディオニュソス的なもの」とよんだものやバタイユが「擾乱」とよんだものに通じており、激烈で無秩序なエネルギーの炸裂を誘発しカオスを形成する。



ひょっとしたら、かれのカオティックでありデモーニッシュであるその生来の性質が現在のプロレス界に主流の動きと「原理的に」対立することがプロレスファン界隈による諏訪魔選手の評価に影響しているのかもねってのはわりとマジで思うんだ。たとえばぼくはそうだとわりとマジで思っていて、まさにそういう理由で好きだし、無二だと思ってる。
きょうはここまで。



もし最後まで読んでくれて楽しんでくれた方がおられたなら。メンヘラだから次いつになるかわからないけど、猛烈に書きたいときがきたら書きます。続きとか、プロレスにおけるレスリングの部分を「力学」ってとこまで一般化・抽象化することで見えてくるものの可能性の話とか。

*参考にした論文とか(著者敬称略)

1.『三木清の人間学におけるデモーニッシュ概念の社会教育的研究(Ⅱ)-ルネ・デカルト西田幾多郎,ジグムント・フロイトとの関連に即して-』堂本雅也・山田正行
2.『ゲーテにおける「デモーニッシュなもの」についての覚書』中井真之