はみ肉

むねにくブログ用

二次観察のタワー

一時観察の外側に二次観察があって、それより外側には延々と二次観察が積み重なっていく。この二次観察が積み重なるフェイズに相当するのがメタゲームで、この言葉がもっとコモディティ化してしまえばいいのにな、と思った。

とにかく主張を伝えることができない。

パターンとしては、言葉がそもそも見つからない場合と、不足なく表現はできるものの単語や接続のために論点の不一致やその他読み手との間に齟齬を起こす場合との二種類が主に存在する。

このことを解消するには言葉を積み重ねていかなければいけないのだろうか、と少し前までなら考えていたのだけれど、長文は読まれづらいこと、それから同一の言語で表されるものに対して読み手と書き手との間でその意味や属性について相違があることからそのベクトルの努力だけでどうにかなるものでもないらしいという考えに変わってきた。

たとえば「資本主義」という言葉が何を示すか、については情報量の面でも質の面でも人によってそりゃもうびっくりするくらいの差がある。これは文章に使用される各単語について同様なので、長文はそういう種類のリスクを構造的に抱える。

構造的に。

ああもうすぐ天龍さん引退しちゃうんだよな、そして諏訪魔さんとかみのるさんとかそういう人に限って呼ばれてることの意味を考えるためのある種のマインドセットがそもそも存在してない人が多いのかな、とかそういうことをツイッター眺めつつ思ってて、これはその連関。

それは間違いなく世界から失われつつあるし、そのことは同時にそれを提供する素地の喪失を意味しているし、戦後という時世にあってつい最近までそうでなかったことがプロレスの独自性のひとつだっていうのに、ミルトン・フリードマンはあまりにも罪深い。