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はみ肉

むねにくブログ用

『沈黙』できなくてこんなとこで吼えてる

『沈黙-サイレンス-』観てその日に書いて次の日にちょっと直した、荒いを通り越してるけど混乱と昂揚についてはこのままにしといた方が正確なのでジレンマする備忘録。




怪作やった。ぼくは出来上がったものを観るだけの日本人だからまだそこまでだけどつくる側は死ぬほど辛いだろこれ。特に主要キャストはずーっと映画のテーマ、信仰とは何か神とは何か信じるものはどうすべきか、そういったものらについて考え続けさせられるのだから観てる側でまだ良かったみたいな邪な感想も顔を出してしまう(しかもそんな感想を抱いたこころもやっぱり劇中でひん剥かれる)。そうしなきゃ役やれないのもあるけど演ってるうちに嫌でも役をすりぬけて自分自身がひたすら問われるの想像しただけで十二分に肝が冷える。



得られる感想の中では「幕府サイドの論理のすり替えに義憤しとけばいいものではない」が中々タイムリーだと思う。劇中でもその辺がっつり描写されてるのエグみがある。「幕府サイドの論理のすり替え」を色々な言葉に代えると互換性の高さに気づくことうけあい。



完成まで何で時間こんなかかったん、というのが観る前の感想筆頭だったけど一回観たらもうそんなこと言ってられねえわ。時間かかるよこれ。すげえかかるやつだよ。かかってない方まであるよ。しんどいとこ全部載せだもん。



高山さんが奉行所の下級役人で出てきたときそういうシーンじゃないのにプオタの癖で一瞬テンションが上がってしまうという予想外のハプニングに見舞われた以外は観てる間始めから終わりまで延々と詰められてた。本格的な説教は地獄に堕ちてからでお願いしますってくらいにあらゆる心の痛点を突かれた心地がした。そんなことを書けるのも映画観終わったからで、鑑賞中はずーっと頭がぐるぐるしてた。言語化できなくて、言語化できないことがぐるぐるを加速させるという凶悪なシステムだった。そういうおっかない映画でした。だから間違ってB級映画的なものを期待されるリスクを鑑みた上でやっぱり「怪作」呼ばわりでいいと思います。パンフ買っといて良かった。

マイブーム永井均(はしりがき170204)

※170206 ver1.1(改題及び追記)
ホワッツ哲学者的問題に対する所感・語尾がニャンコで砂塵地帯編


途中からにゃんにゃんほざき出すのは照れ隠しが6割、予想され得る初歩的なツッコミからおよそ推測しうる恥成分の前借りが4割、くらい


たとえば社会学者とか、宗教家とか、(石橋を叩いて補足:社会学者≠宗教家)生身の人間を相手にする仕事だと考慮されなければならないいくつかの前提は哲学においてすっとばすことが可能だし、認知バイアスその他の干渉が出力を歪ませる問題と格闘するのではなくひたすら論理的に考えていくとどのような定理が導きうるかを考えることを仕事/生業にするという選択ができるのが哲学者なので、側から見れば傲慢にうつるのは致し方なけれど、人間であることを棚上げにすればより論理的思考に忠実になれるのならそうすることを厭わないのが哲学者だからそこはわかってほしいにゃん。人間・永井均と哲学者・永井均とは違うんだにゃん*1)*2)。
直近のわかりやすい例をあげればでんでん現象を可視化できることを発見してあれだけ政治的思惑とは無関係に大はしゃぎできるのは永井さんが哲学者だからなのにゃん。人間ならば自身の政治的ポリシー/嗜好などにひっぱられて永井さんにリプ飛ばしてたおっちゃんみたいになってしまうところを純粋に発見というか可視化がもたらしたタウマゼインに満ち満ちていられるのは、該当ツイートを記していたときの永井さんが極めて忠実に哲学者として振舞うことができる故に可能なんだにゃん。
尤も哲学者というモードは特殊すぎて(注:ここでの特殊は単に習得にものすごく時間を要求するため習得した者の絶対数が極めて少ないモード/技能についてのみいう。「音ゲーの最難関譜面ノーミスクリアできるとか特殊すぎる」と一緒の用法)大体の人には理解されないので、でんでん現象の発見というか可視化をRTした人らの多くはリプのおっちゃん同様の根本的な勘違いをしたあげくそのことに気づかず自身の信仰の正当化に援用しやがっただろうことは間違いないと思うにゃん。その苦さゴーヤレベル。

※170206追記
*1)念のため:永井さんが哲学者・永井均と人間・永井均という多重人格(互いに独立した複数の人格)を持っている、わけでは勿論なくて、鍛錬によって人間である故に陥りがちなタイプの思考の流れを意図的に遮断することができるという意味で書いてます。中学高校の理科でやる電気回路の途中にスイッチあるタイプのやつを思い浮かべていただけるとニュアンスがわかりやすいかも。だから永井さんは人間(ヒトの脳みそを中央処理装置として採用してるいきもの)として振る舞うことは当然可能だし、また人間モードを採用することでファジィれる恩恵にも何度となくあやかっていることもまた全くもって想像に難くないのだが、かれは長年の思索の結果自らの意思でもって人間抑えきって論理の徒であることを可能にしたという意味で書いたことを、というお話をば。油ギットギトの天丼で恐縮ですがまかないだと思うたってください。
*2)先日永井さんがツイートで述べられた論(など)に対して慈永さんが好きになれんという雰囲気のことをツイッターで書かれており、慈永さんが『宗教問題』などの他の媒体で書かれた文章は読んでて頷くとこ多いほうだったのでDDなぼくにはそれなりの衝撃があり、しばしば一緒くたにされがちな哲学者と宗教家との間には根本的な差異があって、それって、この、人間優先するか論理優先にするかって辺りにヒントあんのかなー、とふと思ったのを契機にあいぽんの画面上で人差し指がランバダ踊る羽目になった結果、追記がテンヤでスープカレー頼んで出てくるまでの時間ばりに長くなってしまった。いつかは絶対ルーカレー。






(ところでルーカレーといえば『ブルックスカレー食堂』は結構おいしいので札幌来ることあれば是非。カレーだけなら1〜1.5k/人くらいで落ち着いた雰囲気の中絶妙な火加減のお野菜とルーのベースに採用されてる自己主張のきつくない特別な品種のたまねぎの良さがスーパーロイヤルマッチンマッチンなので、事前情報ゼロの中札幌来たからとりあえずでスープカレーギャンブルするよりは余程有意義にお腹を満たせると思う)

ルンルン気分のハビビ大統領は電気羊のニューロマンサー

最後にプロレスの話になったし、勢いで日記がてら文章を書いたらそれなりの長さのものが作れたので、落ち着かない+眠剤コンボの参考資料としての個人メモ兼開陳しとくともしかしたら誰かの何か概念の言語化に貢献できるかもしれないポジティブシンキング。文字打って画面に出てきたのを受けて思ったけど、ポジティブシンキングって単語、強いんだけど展延性が微妙。あと、タイトルは本文にまあまあ関係ないと思うけどいかんせん同じ頭から出てきたものなので実のところは不明。



『翔太と猫のインサイトの夏休み』を少しよみ進める。カントのはなし。カント以前の主流である超越的観念論とカントの超越論的観念論の違いについて。超越論的観念論では感覚や認識を、それを成立させている何らかの法則によるものの産物とする。思考の順序としては、知覚により対象の存在が証明されるのではなく、まず対象があり知覚というシステムはそれ(対象の存在)を明らかにする、となる。(ここから始まる一文はぼくの発想ゾーンであることをことわっておくけど、例えばダイヤモンドの分子構造(存在)は裸眼(システム)では確認されないが電子顕微鏡(システム)で確認することが可能であり、しかもシステムの差異は存在の有無に一切の影響を与えないというメタファーはそれなりに有効であると思う。)したがって超越論的観念論において最早「我思う、ゆえに我有り」とは言うことができない。かわりにともかく我は存在しており、自我はそのことを発見するシステム(のうち、少なくとも一つ)である、ということが言えるだけだ。



ぼくの現在の考えとしては、観念論をめぐる闘争においてはカントの勝利だと思う。イデオロギーなる概念やダイヤモンドの例が示すように実情に即しているし。超越論的観念論とイデオロギー概念の相性が本当によくてしみじみしちゃう。哲学は紙とペンさえあれば超特急で真理に到達できるのが利点。科学的証明までには時間がもんのすごいかかるしそれまではあやふやな概念なり理論として扱われてしまうのが欠点。



なんでイデオロギー概念の間接的な再発見にこんなにしみじみできるかというと、プロレスの興行全体のパッケージングにマッチメイクの与える影響がえらくでかくて、それが主に上部構造によって構成されるからなのだけど、この、基底になる発想の説明をしてこなかったから、主にツイッターで色々書いてきたことが(「システムの問題として話したかった」んだけど)固有名詞の問題として認識されてしまうのかな、という発想に至ったんだわ。因みに直前のカッコ内はカギカッコ内部分に気づいてない、ないしは気づきのレベルが低い時期があって、言い換えれば「ううむ、わしは固有名詞の話をしたいのではないんじゃ」という言葉の言語化までに時間がかかっていて、そのへん針の振り切れたタイミングをよく覚えてないことによるもの。

諏訪魔選手とデモーニッシュ概念(序)

久しぶりに書いてみた。前回のトピックとは違う話になっちゃうけど。

諏訪魔という選手がぼくのこころを激烈に惹きつけている理由の存在を希求しまた探索している中で見つけたある概念とそれを極めて正確に表す単語についてとりあえず覚書。

野良で勝手にやっていることやら、ぼくの無意識下のバイアスやら、まだほんの少し論文とゲーテの詩の部分を通読した分の経験値しかないことによる錯誤の可能性はあるけど、ひとまず現在のぼくの理解について。



デモーニッシュ、という言葉が存在する。



デモーニッシュという言葉の起源に会うにはゲーテに遡る必要がある。なぜなら彼こそまさに当該の概念にデモーニッシュという言葉を与えた張本人であるから。



デモーニッシュなものは
非理性的にして
また悟性を持たず
ときに善行をなし
ときに悪行をなす、
そういった、ある種超越的性格を持ちながらしかし(一神教の言うところの)「神」でもなく、そればかりか「悪魔」でもないという、非常にカオティックな、いわば強風を伴う雷雨のようなものだ。



間違えちゃいけないのはデモーニッシュであることが即ち悪魔的であることと等価「ではない」ことだ。たとえば道徳への反逆、という行為にあって悪魔的であることがそれ自体の自己目的化を不可避であるのに対し、デモーニッシュであることはそれ自体の自己目的化を望むか望まないかという点についていえば全くもって自由なのだ!



それはニーチェが「ディオニュソス的なもの」とよんだものやバタイユが「擾乱」とよんだものに通じており、激烈で無秩序なエネルギーの炸裂を誘発しカオスを形成する。



ひょっとしたら、かれのカオティックでありデモーニッシュであるその生来の性質が現在のプロレス界に主流の動きと「原理的に」対立することがプロレスファン界隈による諏訪魔選手の評価に影響しているのかもねってのはわりとマジで思うんだ。たとえばぼくはそうだとわりとマジで思っていて、まさにそういう理由で好きだし、無二だと思ってる。
きょうはここまで。



もし最後まで読んでくれて楽しんでくれた方がおられたなら。メンヘラだから次いつになるかわからないけど、猛烈に書きたいときがきたら書きます。続きとか、プロレスにおけるレスリングの部分を「力学」ってとこまで一般化・抽象化することで見えてくるものの可能性の話とか。

*参考にした論文とか(著者敬称略)

1.『三木清の人間学におけるデモーニッシュ概念の社会教育的研究(Ⅱ)-ルネ・デカルト西田幾多郎,ジグムント・フロイトとの関連に即して-』堂本雅也・山田正行
2.『ゲーテにおける「デモーニッシュなもの」についての覚書』中井真之

進捗

所属外選手にゲストとキャストって分け方をするという視点を採用しようとしてて、「団体へのコミットメント濃度的なもの」って言葉から始めてもっと詰めようとしてたんだけど、どういうコードを設定したらいいのかで悩んで止まってる。


「メインストーリーを構成してる/してない」? それとも「興行パッケージの成立に一定以上寄与してる/してない」? それとも……って考えていったらどれが適切なのか、あるいは元の「ゲスト/キャスト」というコードでぼくが言おうとしていることそれ自体が間違っているのか、などについて今のところ判断ができかねてる。


例えば前段落の例でいうと2個目の中にある「一定以上」はアバウトすぎるし、でも代わりの言葉を見つければそれっぽい可能性が開ける気もするし。はじめはもう少し単純に考えてたんだけどな。


一切合切誰に頼まれたわけでもなくぼくが勝手にやってるだけなんだけど、書くって言ってはい結論ドーン! できなかったので残念。気持ちが残念でぼく自身が残念のダブル残念。でもまだしばらく考えてみるし、しばらく考えてどうだったのかはしばらくののちに書くことにする。してみる。つづく。

(予定)ゲストとキャスト

所属外選手の使い方には大きく分けて2種類あって、ゲストとキャストって言い方をすればわかりやすいし構造の解析に役立つんじゃないかという話を、週末書くという話。以上きょうは概要まで。

持て余してるフラストレーション

10/20 記事へのリンクつけた。ほんとは枠引いたりしたいけどすまぽんからなのでご容赦。

前提:ぼくはプロ格DXに加入しておりますがふだんNOAHはビッグマッチや主要と思われる流れについて追っている程度で個々の選手のコメントや動向までがっつり追ってるわけではありません。したがって事実関係についておツッコミがあれば指摘していただけると非常にたすかります。



みのる選手がブロック分け決まるまでの時点で「リーグ戦に出てくれとぬかすならこっちの要求も呑んでもらおうか(要約)」的なやりとりを表でやらずにブロック分け決定後のあとあとになって有料サイトの日記で発信したというのがどうにも腑におちなくて、奥歯にキャラメルはさめながらそのへんのことを書いてみます。


それはつまるところプロフェッショナルの矜持なのだと思われ、NOAH関連でプロの矜持という点で思い返されるのがまたひとつありまして、具体的には丸藤選手がフリーになった潮﨑選手のNOAH参戦可能性について聞かれ「たとえば対鈴木軍の助っ人でということになるなら俺はリングを下ります(要約)」と発言した件です。


ほかにも色々例はあげられるはずですがNOAHも鈴木軍もプライド余計に売り渡さないようにやっている点で共通なんだと思うのにはこの2件があれば充分だと思うのですが、その観点において例外たる選手がひとり存在します。


キャプテン・ノア。
唯一かれだけがプライドと現実との相克からまるで無縁でいるように見えます。あろうことかそのリングネームを名乗りながら。抗争に関して深くコミットするような試合、コメント、そういうものがかれから発信されたことってぼくの知る限りだとまるでないと思うんですよ。これって現在のNOAHにあって極めて異常なことじゃないかと思うのですがどうでしょう。


以上、本当の敵は誰なんでしょうねえ、という話でした。


参照1: http://dx-web.gsj.bz/Diary.Index/objectEach/?oid=DIARY_10001_20151015&cid=10001
参照2: http://www.daily.co.jp/ring/2015/10/11/0008473229.shtml